東京高等裁判所 昭和36年(ネ)2009号 判決
○当事者
控訴人
広瀬清信
右訴訟代理人弁護士
斉藤兼也
被控訴人
木下重雄
右訴訟代理人弁護士
岡田実五郎
同
佐々木凞
○主 文
原判決を取消す。
被控訴人の請求を棄却する。
訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。
○事 実
控訴代理人は主文同旨の判決を求め、被控訴代理人は控訴棄却の判決を求め、ただし、請求の趣旨を次のとおり変更し、その第二項に限り担保を条件とする仮執行の宣言を求めた。
一、控訴人は被控訴人に対し、別紙第一、二目録記載の土地及び建物につき所有権移転登記手続をせよ。
二、控訴人は被控訴人に対し、右土地及び建物を明渡せ。
三、訴訟費用は第一、二、審とも控訴人の負担とする。
当事者双方の陳述並びに証拠の関係は、左に付加、訂正するほか、原判決事実摘示のとおりであるからこれを引用する。
付加、訂正する点は次のとおりである。
一、被控訴人の付加、訂正した陳述
(一) 被控訴人は、昭和三八年二月二五日附金五〇〇、〇〇〇円を差引いた代金残額金七、五〇〇、〇〇〇円を携行して控訴人を訪れ、これを示しその受領を求めたが、何等の理由なくしてその受領を拒絶したので同日東京法務局に同年二月二六日金八八八一六号として右金七、五〇〇、〇〇〇円を弁済供託した。
(二) 原判決三枚目裏七行目乃至九行目に「原告は昭和三四年一月二三日、東京地方裁判所に本件物件の処分禁止等の仮処分を申請し、同日右決定を得」とあるのを「原告は昭和三四年一月二一日、東京地方裁判所に本件物件の処分禁止等の仮処分を申請し、翌二二日右決定を得、」と訂正する。
二、控訴人の付加した陳述
(一) 被控訴人主張のように、被控訴人が昭和三八年二月中に代金残額の提供をしたこと、控訴人がその受領を拒絶したこと、及び右金員につき弁済の供託がなされたことは何れも認める。
(二) 被控訴人の前記一、(二)の訂正に異議はない。
三、立証(省略)
○理 由
第一、被控訴人が昭和三三年一月二七日控訴人から別紙第一および第二目録記載の土地および建物(以下本件物件という。)を代金八、〇〇〇、〇〇〇円で買受ける契約(以下本件売買契約という。)をなし、同日金五〇〇、〇〇〇円を代金支払の際その内入に充当する約定で手附として交付した事実は、当事者間に争がない。
第二、控訴人は、右売買契約は昭和三四年二月一三日限り手附倍返しにより解除されたものであると主張する(原判決事実摘示、控訴人の抗弁(三))ので、この点について判断する。
一、(一)控訴人が昭和三四年二月一二日手附金の倍額である一、〇〇〇、〇〇〇円を東京法務局新宿出張所に供託して、手附金倍返しによる契約解除の意思表示をなし、右意思表示が翌一三日被控訴人方に到達したことは、当事者間に争がないところであり、
(二) 右供託に先立ち、同月一二日控訴人は被控訴人事務所において被控訴人に対し、右手附金倍額金一、〇〇〇、〇〇〇円を提供したが被控訴人不在のため同人においてその受領をなすことができなかつたことは、(証拠―省略)によりこれを認めることができ、他に右認定を左右するに足りる証拠はない。
二、よつて、前記手附は解約手附であるか否かについて判断するに、一般に手附は特別の意思表示がない限り、解約手附の性質を有するものと推定すべきところ、本件においては右特別の意思表示を認め得べき証拠はないから本件手附は解約手附の性質を有するものと推定すべきである。尤も本件売買契約の条項中には、違約の場合には手附の没収または倍返しをするという趣旨の契約条項(第九条)が見られるが(甲第一号証)右の如き条項は、それだけでは(特に手附は右条項の趣旨の為めのみに授受されたものであることが表われない限り)反対の意思表示とはならないから、右条項の存在することは何等前記認定の妨げとはならないものというべきである。
三、被控訴人は、控訴人が前記一、(一)掲記のとおり、手附倍返しによる解約の意思表示をなす以前に、被控訴人は本件売買契約の履行に着手していたものであるから、右解約は無効であると主張する(原判決事実摘示、控訴人の抗弁に対する被控訴人の抗弁(四))のでこの点について判断する。
(一) 売買代金の提供が民法第五五七条に定める売買契約の履行の着手となるためには、その当時履行期が到来していることを要するものと解すべきであるから、先づ本件売買の履行期について判断する。
(イ) 本件売買契約の履行期について、控訴人の妻の病状が回復したとき又は最悪の事態が発生したときから本件物件の明渡に要する最短日数を加えた日時とする旨約定されたことは当事者間に争がないところであるところ、被控訴人は右の控訴人の妻の病状が回復したときは控訴人の妻の病状が危険状態(絶対安静)を脱したときを指すものであり、同人は昭和三三年五、六月頃には右危険状態を脱していたものであるから、その頃履行期は到来したものであると主張する(原判決事実摘示、被控訴人の再抗弁(一))ので考えてみるに、被控訴人の右主張中、「病状の回復」とは危険状態(絶対安静)を脱したときを指すものであるという点については、これを肯認するに足りる証拠はなく、却つて(証拠―省略)によれば「病状の回復」とは病人の身体が動かせるようになり、転地療養等かできる程度に迄回復することを意味するものであることを認めることができる。しかも控訴人の妻の病状が右のように病人の身体が動かせるようになり、転地療養等ができる程度に迄回復するに至つたことを認めるに足りる証拠はない。従つて、結局本件売買契約の履行期の約定中、「病状の回復」とは控訴人の病状が危険状態(絶対安静)を脱したときを指すものであるとの前提に立つて、本件売買契約の履行期は昭和三三年五、六月頃に到来したものであるとする被控訴人の前記主張が控訴人の錯誤の抗弁(原判決事実摘示、控訴人の抗弁(二))についての判断をまつ迄もなく理由がないことは固より、仮に前認定のとおり「病状の回復」とは、病人の身体が動かせるようになり、転地療養等ができる程度に迄回復することを意味するものであるとの前提に立つても、前記のように、控訴人の妻の病状が右の程度に迄回復したことを認めるに足りる証拠はないから、本件売買の履行期は、本件売買契約の履行期に関する約定中の「病状の回復」に該る事由が発生したことを理由としては遂に到来しなかつたものといわなければならない。
(ロ) 次に被控訴人は仮定的な主張として、被控訴人は控訴人に対し、昭和三四年一月三一日到達の書面で、本件売買契約の履行の日時を昭和三四年二月九日と指定したから、右期日に履行期は到来したものであると主張する(原判決事実摘示、被控訴人の再抗弁(一))ので判断する。被控訴人が控訴人に対し右のように履行期の指定をなしたことは当事者間に争がないところである。そして、被控訴人が、被控訴人において本件売買契約の履行期を指定する権利を取得するに至つた原因として主張するところは、控訴人が昭和三四年一月二五日被控訴人との間で、同人に対して同月二七日迄に履行期を指定することを約したにも拘らず、右期日を右約定の日迄に指定しなかつたという点にあり、(原判決事実摘示、被控訴人の再抗弁(一))右事実は(証拠―省略)によりこれを認めることができる。(中略)ところで右の如き場合に被控訴人が本件売買契約の履行期を指定する権利を取得するためには、法律の規定もしくはその旨の特約が存在することを必要とするものと解すべきところ、右の如き趣旨の法律の規定は存在せず、(仮に選択債権における選択権の移転に関する民法第四〇八条の規定が類推されるとしても、被控訴人において控訴人に対し、相当の期間を定めて、本件売買契約履行期を指定することを催告する等右法条に定める選択権の移転の要件である相当の期間を定めた催告に準ずる催告をなしたことを認めるに足りる明確な証拠はない、(中略)また右の如き特約が存在したことについては、何等の主張、立証もない。従つて、被控訴人が指定した期日である昭和三四年二月九日に本件売買の履行期が到来したとの被控訴人の前記主張も、控訴人の強迫による取消の抗弁(原判決事実摘示控訴人の再々抗弁)について判断する迄もなく理由がないものといわなければならない。
(ハ) 被控訴人は、本件売買契約の履行期のうち、控訴人において本件物件の所有権移転登記手続をなすべき期日は、本件物件の明渡期日とは別個に定められているものである。即ち、右移転登記手続は控訴人において、本件売買の残代金七、五〇〇、〇〇〇円を支払うのと引換えに何時でもなすべき約である旨主張するけれども、被控訴人の右主張に沿うが如き(証拠―省略)は、(他の証拠―省略)に照し、にわかに措信できない。殊に、本件不動産売買契約証書(甲第一号証)に特約条項として同契約書末尾附記事項第一条に本件物件の所有権移転登記手続および明渡の期日について、控訴人の妻の病状が回復するか又は最悪の事態が生じた場合に明渡に要する最短日数を加算した日時と定められるに至つた経緯、特に(イ)本件売買契約の交渉は控訴人において、重症で病臥中の控訴人の妻の懇願により、一旦中止したこと、(ロ)右の様に一旦中止したにも拘らず控訴人において売買の交渉を再開して本件売買契約を締結するに至つたのは、本件売買契約の末尾附記事項第一条として特約条項が定められるに至つたことによるものであること、(ハ)しかも、右特約条項中に定める「病人の病状が回復するか又は最悪の事態が生じた場合」という条件は伸縮を許さない厳格なものであり、そのことを強調するために後記のように特に右附記事項第一条の記載方法として、但書を一旦記載した上、それを棒線で抹消する方法をとつたこと、以上(イ)、(ロ)、(ハ)の各事実に徴すれば、控訴人は、控訴人の妻が病臥中は、(転地療養が可能となつた場合は別として)本件物件の売買については、その明渡、移転登記手続等一切の履行行為を行わない固い決意であつたことが推認できることに鑑みるときは、被控訴人主張の様に本件物件の移転登記手続の期日については、明渡期日とは別に、残代金と引替えに何時でも移転登記手続をなすべきものと定められていたというようなことは到底考えられない。附記事項第一条として、前記特約事項が定められるに至つた経緯は次のとおりである。即ち控訴人は本件物件を一旦売却処分する決心をして、不動産仲介業東光通信株式会社にその売買の周旋方を依頼し、同会社の周旋により被控訴人との間に売買交渉が進行しつゝあつたのであるが、控訴人は、右売買の交渉を中途で打切つた。その理由は、元々本件物件の売買の話は、控訴人において妻に内密で始めたものであるところ、右控訴人の妻が、控訴人が本件物件を他に売却しようとしていることを聞知し、控訴人及びその妻の仲人を通じて、自分は本件家屋で死に、本件家屋から葬式も出して貰いたいから、本件物件の売買は中止して貰い度いとの同人の切なる願を控訴人に伝えたことはある。控訴人の右取引中止の通知を受けた前記東光通信株式会社の社員である訴外吉川英美は被控訴人側の周旋業者である相互商事不動産部の堀栄一と協議の結果、控訴人の妻が死亡するか又はその病状が回復する迄本件物件に対する所有権移転登記手続及び本件物件の明渡等の履行期を延期すること、但し右期日が売買契約締結の時から四ケ月を超える場合は、その期日については双方協議の上決定するものとすること、との特約条項案を作成し、本件売買契約の履行期について、右の特約を附することにより控訴人を説得することとし、右吉川英美において右特約条項の案を東光通信株式会社々長である飯島又市に示してその承認を求めたところ、右飯島は右の但書は後日問題を起す虞れがあるから削除することを可とすること、右を削除した上で関係者に異議がなければ本件物件についての売買契約を締結することゝして差支えない旨指示した。そこで、昭和三三年一月二七日頃前記東光通信株式会社の事務所に、前記堀栄一、被控訴人、吉川英美外一名等が会合し協議の結果全員前記特約条項の案(但書を削除したもの)を了承したので、右特約条項)但書を削除したもの)を本件不動産売買契約書(甲第一号証)の末尾に附記事項第一条として記載し、その記載方法としては一旦右但書の部分も記載した上で、その部分を棒線で抹消する方法によつた。右のように、但書の部分を一旦記載した上、棒線で抹消する方法をとつたのは、それにより右但書の如き特例が定められなかつた経過を明らかにするためである。そして、右記載がなされた後に控訴人も前記事務所に来り、右但書の抹消された特約条項を示されて、本件売買契約の締結に同意するよう説得され、遂に不本意乍ら右特約(但書の抹消されたもの)を附することを条件として本件売買契約の締結に同意するに至つたものである。(中略)以上のとおりである。
なお、前記売買契約第五条但書によれば、双方協議の上移転登記手続を期日前になすことを妨げない旨定められているが、右は、前記相互商事不動産部備付の「不動産売買相互契約書」と題する契約書用紙に不動文字で印刷されているものであり、前記特約事項の但書を抹消する際に当然抹消すべきものが抹消洩れとなつたものであると認められるのみならず、右協議がなされたことについては何等の主張立証もない。
以上の次第で、被控訴人の右主張も理由がない。
(ニ) 以上(イ)、(ロ)、(ハ)により明らかなように、控訴人の本件売買契約を手附倍返しにより解除する旨の意思表示が被控訴人に到達した日(右日時は前記のとおり昭和三四年二月一三日である。)以前に、本件売買契約の履行期が到来したことはついては、結局その立証がないものといわなければならない。(控訴人の妻が昭和三五年二月二二日に死亡したことは当事者間に争がないところであるから、本件売買契約の履行期は、仮に控訴人主張の解除が理由ないとすれば本件売買契約に定める「最悪の事態」の発生により右同日頃に到来したことになる。)
(二) 控訴人の手附倍返しにより本件売買契約を解除する旨の意思表示が被控訴人に到達した昭和三四年二月一三日以前に本件売買契約の履行期が到来したことの立証がないこと前記のとおりであるところ、売買代金の提供が売買契約の履行の着手となるためには、その履行期が到来していることを必要とすること前記のとおりであるから、本件売買契約について、控訴人が解除の意思表示をなす以前に履行の着手があつたとする被控訴人の主張は、被控訴人において売買代金の提供をしたか等の点についての判断をまつ迄もなく理由がないものといわなければならない。
(三) 以上(一)及び(二)説示のとおりであるから、結局、控訴人の手附倍返しによる本件売買契約解除の意思表示は、被控訴人において、履行に着手した後になされたものであるから無効であるとする被控訴人の主張は理由がないものといわなければならない。
なお、一般に売買契約における代金の弁済期は、売買の目的物の引渡の期日とは、たとえ右の両者が同一日時の場合でも、観念上別個のものであるから、買主は売買代金債務についての期限の利益を放棄して、期日前に弁済をなすことは可能であるが、この場合といえども、それにより相手方の利益を害することを得ないものである。(民法第一三六条第二項)従つて、仮に被控訴人主張の売買残代金(小切手)の提供(原判決事実摘示、被控訴人の再抗弁(四))が本件売買契約における代金支払についての期限の利益を放棄してなされたものであるとしても、右期限の利益の放棄は、控訴人の手附倍返しによる解除権には何等の影響も及ぼさないものといわなければならない。
四、以上一乃至三説示の理由により、本件売買契約は、控訴人主張のように昭和三四年二月一三日限り解除されたものというべきである。
第三、以上の次第であるから、本件売買契約の存在を前提とする被控訴人の本訴請求は、爾余の点についての判断をまつ迄もなく、すべて理由がないものとして棄却すべく、原判決は失当であるからこれを取消し、被控訴人の本訴請求は失当として棄却すべきものとし、民事訴訟法第三八六条、第九六条、第八九条を各適用し、主文のとおり判決する。(裁判長判事 小沢文雄 判事 池田正亮 判事 宇野栄一郎)
第一、第二物件目録(省略)